野ざらし日記

編緝出版×農藝全般「あらたま⦿農藝舎」主人・根津耕昌のblogです。

野のすみれ La Pensée sauvage――「野生の思考」にみる和歌の本質

 

春の野にすみれ採みにと來し吾ぞ。野をなつかしみ一夜宿にける 〔萬葉集一四二四〕山部赤人



 フランスの人類学者クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss, 1908-2009)教授のいわゆる〈野生の思考〉を念頭に萬葉集を通読すれば、それが「因果律の主題による巨大な変奏曲」である事に氣づかされる。萬葉の時から現代まで、連綿と紡ぎ継がれてきた和歌の本質はその、ラディカルな意味での儀礼性、呪歌性にあり、和歌を詠むものは先行する類型群と対話を交わし、歌群における一変奏として因果律に深く関わっていく態度が求められる。その態度とは、次のようなものだ。

 

計画ができると彼ははりきるが、そこで彼がまずやることは後向きの行為である。いままでに集めてもっている道具と材料の全体をふりかえってみて、何があるかをすべて調べ上げ、もしくは調べなおさなくてはならない。そのつぎには、とりわけ大切なことなのだが、道具材料と一種の対話を交わし、いま与えられている問題に対してこれらの資材が出しうる可能な解答をすべて並べ出してみる。しかるのちその中から採用すべきものを選ぶのである。(中略)しかしながら、これらの可能性はやはりつねに、材料それぞれ独自の歴史によって、またそのもとの用途のなごり乃至はその後の転用からくる変形によって限定されている。(中略)したがって一つ選択がなされるごとに構造は全面的に再編成されるので、それがはじめに漠然と想像されていたままであることも、当初によりよいと考えられていたままであることもけっしてないのである。(C.レヴィ=ストロース『野生の思考』大橋保夫訳/みすず書房/p.24)
野生の思考

野生の思考

 

 

 引用文はレヴィ=ストロースが〈ブリコラージュ Bricolage〉と呼んだ世界各地に普遍的にみられる知のあり方、ものづくりの手法で、使い古された資材を寄せ集めてあらたなものを再編成する手際から「器用仕事」とも訳される。また、呪術や神話が紡ぎだされる際の特徴的な思考のパターンでもあり、そのことから〈神話の思考〉とも呼ばれる。
 伝統的な作法にのっとり和歌を詠んでみればわかることは、歌を詠む者に与えられる状況、材料や道具の問題、思考の展開経路はまさに〈ブリコラージュ〉のそれであり、和歌を詠む行為に〈野生の思考〉が息づいていることを実感させられるだろう。

 

 萃点としての〈有心の序〉

 

 和歌に内在する〈野生の思考〉とは何か、具体的にいえば伝統的修辞の一つである序詞(じょことば)、そのなかでも特に〈有心の序(うしんのじょ)〉を萃点とした変奏群に関する事例を挙げることができる。
 有心の序とは、萬葉集第八巻に採録されている日置長枝娘子の歌、
 

W.0 秋づけば尾花がうへにおく露の消ぬべくも吾はおもほゆるかも〔卷八・一五六四〕日置長枝娘子
 
を例にとるなら、「秋づけば尾花がうへにおく露」が「消ぬべくも吾はおもほゆるかも」の比喩として機能する、自然の動態と心情を直結させて形容する修辞法を指す。萬葉集を通読し、類型を比較するに、〈有心の序〉をめぐる修辞群の内部では複雑な対立項交換が起こっており、修辞群全体、ひいては萬葉集そのものを「巨大な変奏曲」として捉えることなしに、一首のもつ意味あいを把握することはできそうもない、という事が次第に判ってくる。これは斎藤茂吉、島木赤彦をはじめとしたアララギ写生論に代表される近代的短歌観を批判再考してみるための、ひとつの契機となるだろう。
 ここでは日置長枝娘子の歌を仮に基準歌(W.0)として置き、一例を挙げてみることにする。

 

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野のすみれ La Pensée sauvage ――「野生の思考」にみる和歌の本質(一)|根津耕昌/Kousuke Nezu|note

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