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野ざらし日記

編緝出版×農藝全般「あらたま⦿農藝舎」主人・根津耕昌のblogです。

精霊について

〈精霊 spirit〉と呼び慣らわされているものの半分は微生物の事であると、いつしか私は考える様になった。
 私達の体にも棲んでいるそれらは、眼に映らず、人々の生活に寛いだ雰囲氣、福を齎す者もあれば、病苦を生み悪事を為し、死をまねく者もある。これは古籍傳承に聞く精霊、もののけの類の性質に等しい。
 日本各地の神域を訪れた際に、時として皮膚や視覚におぼえる神秘な空氣は、過度に人の手の入る事のない森の、活きた土壌に棲む微生物が醸す薫りや物質に因るものが多いと思う。一度でもどぶろくをこさえた事のある人間になら、活きた醗酵物を摂取したときのあの神秘な感じが、わかってもらえるだろうか。
 以前暮らした家の裏山は宮内庁管轄の区域もある小高い山で、あまり人の通わぬむきだしの山道が幾筋もある。もみぢ葉の散り積もった後の初冬の山は、蹈み込んでみると意外に暖かい。冬だというのに蝿が飛び、枯れ葉のつもった土を蹈めば甘酸っぱい薫りがたちあがる。山そのものが低温醗酵しているのだ。
 初冬の山に蝿の飛び交う光景は一種異様でもある。それは私に根の国、死者の国の事を想起させる。日本語で精霊、セイレイ或いはショウリョウと呼ばれるものの一方の意味は祖霊、死者の魂の事だ。精霊を半分は微生物であるとしつつも、私は霊魂を否定する立場ではない。自然科学では解けぬ神秘はあり、冬は死で充ちている。
 海のあなた、山の奥處(おくか)から死者の魂は時をさだめて繰返し訪れるのだと謂う。古典藝能の演目「紅葉狩」の主役は平維茂ではなく美女に身をやつした鬼であり、私たちは鬼が敗れ去る事を知りつつ、幾度も鬼が蘇りくることを期待し、熱狂する。死も死者も畏ろしい物だが、人は何故か死者と共にしか生きられない。
 精霊の一面である死霊、鬼、もののけの類の本体が微生物であると仮に考えれば、視ることの叶わぬ者の姿を、人はどのようにして視ただろうか。微生物を人の肉眼で視ることはできない。たとえばそれは、共感覚による知覚であったのかもしれない。共感覚者は音や薫りと同時に視覚をおぼえるのだという。


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