野ざらし日記

編緝出版×農藝全般「あらたま⦿農藝舎」主人・根津耕昌のblogです。

朝(あした)の旅


 ある夏の日の夜明けのことだ。
 その時分、ぶざまで気儘な野宿の旅の途上にあった私は、山深い村の端をながれる小川のほとりで、寝袋につつまれて眠っていた。寝袋は夜露にしめっていたが、いつしか野宿がなれっこになってしまっていた私は、静かな閑村のはずれの、ささやかな異物としての穏やかさのなかに、旅そのものの居心地の良さをおぼえてか、夢見ることもわすれ、ただただからだの休まるにまかせていた。その夏の日の夜明けの、ほんのひと時の裡(うち)に、私にとって生涯忘れえぬだろう出来事がおこる。
 それは、朝の光がしらじらと目蓋をたたくおとずれの手前の、夜という堆(うずたか)くつもる雪にも似た過去の世界が、いつしか消えはてて行くそのつらなりのさなかに、始まっていた。


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 アンリ=ルイ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson, 1859-1941)は、その処女論考『意識に直接与えられているものについての試論(L'Essai sur les données immédiates de la conscience, 1889)』のなかで次のように述べた。「自由に行動するとは、自己を取り戻すことであり、純粋持続の中にわが身を置き直すことである。」ここでいう〈純粋持続 durée pure〉あるいは文中において用いられた別の表現〈真の持続 durée réelle〉とは、どのような観念を表象することばなのか。

まったく純粋な持続とは自我が生きることに身をまかせ、現在の状態とそれに先行する諸状態とのあいだに境界を設けることを差しひかえる場合に、意識の諸状態がとる形態である。

時間と自由 (白水uブックス)

時間と自由 (白水uブックス)

 われわれの意識生活は、数の概念とユークリッド幾何学(「等質的空間の観念」)に依存した並置的な、物事を図式化して把えようとする思考様式から容易にはのがれることができない。ベルクソンは言う「数についてのあらゆるはっきりした観念は空間の中の視覚像(ヴィジョン)を含んでいる」と。事物、とりわけ時間について考えをめぐらす際にさえ、われわれはそれを幾何学空間の中に展開させて並置し、等質なものとして扱う。そこでは必然的に事象の量(大小・強弱等)が問題とされる。
 たとえば私は、ある人に心惹かれる感情と、その人への反発、その人のもつ重力から逃れようする心の動きと、どちらがどちらより強いのだろうか、と考えることで現状認識を試みようとすることがしばしばある。このような思考はもはや無意識のうちに幾何学的性格を具えてしまっていることが観てとれるだろう。ベルクソンはこのような認識を、質と量とを明確に区別することなく事象を数的にあつかうことから発した錯覚であると看做した(フランス語における質 qualitéと量 quantitéとは、その音素の比較からも判るようにある種の対応関係にあり、おそらくそれは日本語における語の関係性とは誤差があるだろう)。
 ある一つの感情について、量的な増減(ベルクソンは「延長 étendue」という語を用いて、量的な増減を、等質空間におけるひろがりと結び付ける)として把えられ考えられがちな現象を、その感情を支点(「継起 succession」)として持続する非等質な時間のなかで補追された無限数の筋肉運動によって生じる異質な感覚の〈重ね合わせ superposition〉であると把え、認識をあらためること、それはつまり、量子物理学の言に依れば「状態は確率でしか表現されえず、むしろさまざまな状態の重ね合わせである」ということだろうか。
 ドイツの理論物理学者ハイゼンベルグは、「不確定性原理 Uncertainty principle」によって、目にみえない微粒子の世界は等質的空間を前提とした幾何学的な観測を拒むことを示した。ハイゼンベルグと同時代に量子論の発展に寄与した仏人ドゥ・ブロイは、その著作『物質と光(Matiéreet lumiére,1938)』の中で不確定性原理について言及し、こう記している。

[粒子の]位置を厳密に決定しようとすればするほど、運動状態はますます不確定になる。また逆に粒子の運動状態が明確にきまるほど、[中略]粒子の位置は確定的に計算することが出来なくなる。

物質と光 (岩波文庫 青 926-1)

物質と光 (岩波文庫 青 926-1)

 人間の感覚と微粒子とは似かよった性質を有している、などと言うつもりではない。ただ、微粒子という不可視のものに対するとき理論物理学者があらわにする〈繊細の精神 Esprit de finésse〉を、われわれもまた感覚の領域、意識に直接与えられているものを観じる際に、心にとどめておきたい。
 感覚とは言語の枠に決して収まりきることのない、無量のものである。この、無量ということばは、計り知れない、はてしない、といった意の梵語amitaあるいはamidaの漢訳であり、仏典における阿弥陀の名号はその音に当て字がなされたもので「幸あるところの美しい光景」をあらわす、という。無量の感覚相互の関係性を〈重ね合わせ〉、つまり一つの〈生態系〉と呼びうるような、継起としての諸相をなしながら遷移を続ける異質的な感覚の相転移として把えること(ベルクソンは、冒頭に引用した純粋持続に関する文章を次のように継いでいく)「そのためには、移り行く感覚や観念の中に全面的に没入する必要はない。なぜなら、そのような場合には、反対に、自我は持続することをやめてしまうはずだからである。しかしまた先行する諸状態を忘れてしまうことも必要ではない。これらの諸状態を思い出す際に、自我はそれらを現在の状態に、ちょうど一つの点を他の点に並置するようなぐあいには並置することなく、あるメロディーの構成音をいわば一体となって融合したまま思い起こすときのように、先行する諸状態と現在の状態とを有機化すれば事足りるのである。」


 *


 それは風の音かとおもった。
 たしかに、風にゆれる梢が触れあうときの囁くような、乾いた音色も、そこにはあった。しかしそのとき、私の心がこたえようとしているものは「それではない」と、私の耳がわたしに注意を呼びかけていた。私はその呼びかけに応じて、彼にわたしの意識すべてをゆだねた。そのときの私にはそれができた。なぜだかはわからない。
「だれかがだれかを呼んでいる」と、耳がしらせた。
 私の意識はそれが虫の音であることをわたしの耳に告げた。けれど彼は、その声の主がなんという名をもつかは知らなかった。そんなことは、いまは問題ではなかった。耳はゆっくりと波長を聴きわけた。そうこうしているうち、また別のだれかがだれかを呼んでいることに、彼は気づいた。
「鳥の声がきこえる、そうしてまた、鳥の声が。」
 ふたつの声は呼びあっていることを、その波長から聴きわけた耳がわたしに教えた。そのあいだにも、まただれかがだれかを呼び、それに応える声がして。もう私の耳には、ひとつひとつの音を聴きわけることなどできないほどにたくさんの、虫の音が、鳥の声が、それぞれの音のニュアンスのなかで何かを伝えようとして、だからもはや聴きわけるまでもなくあまりにたくさんのそれぞれの音が、それぞれの時間の波のなかで生まれては消えて行く。すべての音は固有の時間のなかからはじまり固有の時間のなかで終わる。けれど呼び合いが終わることはないのではないかと思われて来るほどたくさんの呼応に、私は時間という不可思議な感覚が、はてしなく行きつ戻りつする位相が呼びあっていて、わたしはただ、それをだれかにわたそうと欲して、わたして、そしてわたされて、わたして、わたされて、そしてわたして……なにが私に、そして虫たちに、鳥たちにそうさせようとしているのだろう?
 私の意識は、そのときひとつのことばとしてそれを私に伝えようとしていた。あの雀は、愛そうとするがゆえ彼の雀に呼びかけ、彼の雀も、愛そうとするがゆえにからだをふるわせて応えた。すべての呼応が、〈愛の呼応〉となっていま・ここを産みだそうと、ふるえていた。そしてわたしがいま・ここにいるのだとしたら、その愛はわたされ、わたされることから「わたし」は産みおとされつづけていく。
「風の音が、」と、私の耳がわたしをよぶ。
「あなたをいま、ここに呼んだのが、風の音だったことをわすれないで。あのときわたしが、『それではない』とあなたに言った言葉はまちがいだったのかもしれない。どうしてわたしが、あの風の呼びかけに素直に応えてといわなかったのか、いまはもうわからない。けれど、わたしがあのときあなたにそう呼びかけなければ、あなたがいま、ここに来ることは、決してなかったのかもしれないのです。」
 だれかが私を呼んでいた。
 ひかえめな私の耳は語ることを辞めた。
 さっきからずっと、永いあいだ、私の目蓋を誰かがこつこつと叩いていたことを、私のふたつの目がそっと、教えてくれた。ほつほつとした光が、まぶたのむこうに観じられる。私は目を明けてみた。
 なにかが、ゆっくりとそのすがたを青空という〈世界〉にかえて、私をとらえた……
 今はもう、虫鳥の、愛の呼応の交響楽はいつか・どこかへきえはて、みみなれた蝉の声がそのなごりの遁走曲(フーガ)を、粛々とかなでて行く。


 *


「例外的な時、あまりに神秘的なまでにも特権的な瞬間というものが存在する。」
 マフムード・サァディ、ピエール・ムシェ……。いくつかの異名をなのって十九世紀末のマグレブを旅した奇妙なひとりの紀行作家は、読者の耳元で慇懃に語りはじめる。そうして、みずからが観じた光景をおもいおこそうとすることに戸惑う様子をみせながら、こう記していく。
「このような束の間の瞬間において、細部は必然的にわれわれから逃れ去る。われわれは事の全体をしか知覚できない……それは、われわれの魂の特別な状態だろうか、あるいは通りすがりに、いつも無意識のまま捉えられる、場所の特殊な様相だろうか。
 私にはわからない……」

砂漠の女

砂漠の女

 彼女は、イザベル・エベラール(Isabelle Eberhardt)という名を与えられ1877年、スイスのジュネーブに私生児として生まれた。(Eberhardtは独語よみではエーベルハルトとなるが、彼女の著作活動は仏語圏であったとのことから、ここではエベラールとよぶことにする。)
 彼女の、27年という生涯はその年表的な短さと、次々とあざやかに起こった出来事の濃密さにおいてひとびとの伝記趣味をそそるものであったが、われわれはここでそうした「量」の話題へと這入りこんでしまう道すじを慎重に避けて通りながら、不可思議なほどまっすぐに進む彼女の旅程をたどって行きたい。
 1972年に出版された、彼女の遺稿集の英文訳『忘却を求める人(The Oblivision Seekers―and other writings)』に寄せた序文のなかで、彼女と同じく砂と空とをたたえたマグレブを、北アフリカのモロッコへと旅し、のちに彼の地で暮らしその生を終えることとなった米国の作家ポール・ボウルズ(Paul Bowles, 1910-1999)は、彼としてはめずらしくいささか感情的な調子で、次のように述べている。

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