野ざらし日記

編緝出版×農藝全般「あらたま⦿農藝舎」主人・根津耕昌のblogです。

本朝幻想文学『斐陀匠物語』潤訳版

六樹園飯盛・作
根津耕昌・潤訳

六樹園飯盛、本名・石川雅望(いしかわまさもち, 1754-1830)は、江戸時代後期の戯作者。狂歌師、国文学者として知られる。通称石川五郎兵衛、号は「六樹園」「五老山人」等、狂名は「宿屋飯盛」。家業の宿屋を営むかたわら狂歌国学研究、戯作、随筆等の執筆にいそしんだ。


本書『斐陀匠物語(ひだのたくみものがたり)』の刊行は文化5年(1808、文化6年との説も)。挿画は葛飾北齋、全14回6巻6冊。書名は本来「斐[阝+色]匠物語」あるいは「飛騨匠物語」「斐騨匠物語」と書かれる。


「潤訳」にあたっては『読本集(日本名著全集/江戸文藝之部)』(昭和2年刊)を主な底本とし、原文を尊重した訳をなしつつ適宜潤色を加え、現代の読者に読みやすかるべく努めた。直訳で無い旨ご理解の上、どうぞお愉しみあれ。

第一段○すみなわ 墨縄が匠の道に修練せる事


 「斐陀の匠」とは一人の人物を言うものではない。
 いにしへの昔、飛騨の国からは庸調をもって税を納めず、「匠丁」とよばれるすぐれた木工を里ごとに十人ずつ出(いだ)し、かしこくも公的造営の任をつとめ国の営みとしていた。貞観の頃には飛騨一国より百人が召し上げられ、内裏の要たる朝堂院、帝の禁苑なる神泉苑など造営せられた事、国史に記載されて詳しい。
 さて、作者今ここに筆をとりたるは、あまたある飛騨の名工どものなかに、機巧(からくり)細工の妙技だれよりもすぐれ、その技術神に通じ、天地造化の不可思議、自然複雑の神妙なる世界を鑿(のみ)にて彫刻むその手業(てわざ)、木っ端を鳥、板を馬にといのちを与え一世の人びとを驚かせた、或る名匠の物語である。

機巧(からくり)の若き匠

 その時代ははっきりと聞き傳わっていない。
 飛鳥奈良平安の御代の、いずれの帝の御宇(ぎょう)であられたか、斐陀の国に猪名部墨縄(いなべのすみなわ)という男があった。この男、はやくに父母を亡くし、それよりただ独りにて生活していた。飛騨の国人の例に漏れず、田を耕し、地を耘(くさぎ)る春秋の暮らしのいとまに、鋸(のこ)と鑿(のみ)とを手にひたすら木工の技藝を磨いてあったが、その技術人にすぐれ、仕上がり美麗この上なければ、先達の老工どもことごとく感服し「墨縄こそまことの良工である」と口々に褒め称えるほどになる。そののちも墨縄ますます心怠ることなく修練にはげみ、今では並ぶ者のないこの道の祖(おや)となった。

 墨縄が木にて雄鶏をつくれば、生きたる雄鶏これを見て両翼をひろげ飛びかかり、鑿(のみ)にて鼠を作りなせば、猫これを追いかけ、生ける如くに捕らえ弄ぶなど、さまざまに神妙不可思議なる事起これば、遠く近くだれもがその技藝を慕い、調度の品、珍奇なる玩弄物など誂えさせんと欲する者ども集いて、門前に市をなす賑わいであった。けれども墨縄は、心の素直でない者、権勢を傘に作らせんとする者にはまともに応対すらせず、貧しき人、老いたる人などが乞いねがう声には、願いのままに作り与えたものであった。

郡司紀武俊の蛮行

 その頃、時の郡司に紀武俊(きのたけとし)という者があった。
 この男、慈悲の心なく、私財を肥やしつねに農民をしいたげ富を掠め、暴虐放縦のかぎりを尽くしていた。この武俊、酒を好んで飲む者にて、立派な盃をひとつ墨縄に作らせようと従者を遣わして言ってよこす。墨縄は常日頃より彼の悪行を憎んでいたため、直ぐに作るような事もせず、その儘にしておいて日を過ごせば、武俊それに腹を立て、
「この若造めが、郡司である儂(わし)を氣にもとめず、小馬鹿にするような舐めた真似をしよッて、けしからん奴だ」
 と従者どもに言いつけ、「とッとと行ってひッ捕らえて来い」と兵を遣わす。
 さて従者ども、墨縄の家の門前に到って大声を出し、
「郡司殿のお呼びであるぞ。さッさと出てこい」
 と声々に叫びたてるが、しんとして一つの返事もない。
 業を煮やした従者ら門を破り、土足のまま床にかけのぼって戸障子引きあけ蹈み入ろうとするに、どうして作ってあったものか、障子を押しあけた従者どもが蹈む足下の畳床もろとも逆さまにひっくり覆(かえ)り、居あわせた五人の従者ことごとく床の下に落下してしまった。床の下は深く穴を掘ってあり、どうにものぼる手立てがない。初めの勢いはどこへやら、従者ども大いに恐怖し震えあがり、穴底より空を仰いで言うことには、
「われらが貴殿に無礼なふるまいをいたしたのは、ぜんぶ郡司が命令にござる。どうか命は助けて下され」
 と声々に泣き言をわめいて寄こす。

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