野ざらし日記

編緝出版×農藝全般「あらたま⦿農藝舎」主人・根津耕昌のblogです。

ことばとからだ――離魂状態にみる世界の成り立ち(草稿)

 すべてのこだわりがほどけてしまふことへのあこがれとおそれ。あこがれとおそれのあわひにわれわれのいのちがある。
 性の交はりを言う交合は「交(ちが)ひ合ふ」の意で、雌雄陰陽両極の二者が時を得て交(ちが)ひ遂には合一することからあらたな交(ちが)ひをうみなす行為を表す。交(ちが)ひが時を得てまた交(ちが)ひを生み、互ひに交錯しどこまでも織りなされてゆく姿をヒトは界、境(さかひ)、世界と呼んだ。
 交(ちが)ひは時により接点をもつ交差、真交(まちが)ひは数学に言ふ「ねぢれの位置」にあり、決して接点をもたない関係のことだ。すべてのものは必ず真交(まちが)ひをもち、自分のまちがひは自分では決して認識しえない。ヒトがまちがひを指摘されても何の事か一向にわからないのはそのためで、それぞれの交(ちが)ひを精密に重ねあはせてみる事から初めてその存在を知り得る。
 それぞれがそれぞれの交(ちが)ひのなかですでにひとつであり、これ以上ひとつになることはできない。世界はばらばらのままですでにひとつだ。ただ、誰もがその背後にもつ真交(まちが)ひの存在を知り、自分では認識できない真交(まちが)ひの不思議を重ねあはせることから、より深い相互認識に至る。それを佛道の哲理は緣と呼んだ。
 自分からは決して見ることのできない真交(まちが)ひは畏ろしく、ヒトはその昏(くら)さに時としてあこがれを覚える。そして真交(まちが)ひへのあこがれが過ぎると自己同一性を失ひ、いのちのはたらき、魂を失ふ。「あこがれ」とは古語で魂の游離を意味することばだ。
 触覚、視覚、聴覚、嗅覚、味覚といふ五感が鈍ったからだはいのちのはたらき、自己同一性が失はれかけた状態、魂の游離してあこがれ出でてゐる様を言ひ、病ひとして古くから恐れられて来た。ヒトは自らの真交(まちが)ひに氣を病むあまり、魂を游離させてそれを認識せんと欲し、結果己が全能であるやうな錯誤に陥る。

 自己同一性を半ば失いつつある、いわゆる魂の遊離したからだがもつ独特の状態は、通常からだのすみずみにまで行き届き循環してゐる生命エネルギーが停滞してをり、痛みを痛みとして感じえない程に五感が鈍る。この状態の先に死がある。
 つまり魂とは、からだを機能させてゐる生命エネルギーの運動、氣(ち)の流れに他ならないのだが、自己同一性が失はれていくと氣(ち)の流れが停滞する。その段階では血は流れ、心臓も動いてゐるものの、本人の五感はどこまでも鈍り、からだは重く、操り手のゐない人形のやうな物体に近づく。つまり物体であるからだを機能させるためには本人が本人であるといふ自覚、自己同一性が不可欠であることが知られ、この現象は霊魂の存在なしにはどこまでも説明しえない。物理的には過不足のない人体が、自己同一性を失ふことで機能しなくなってしまふ、これはどこまでも不思議だ。睡眠状態とも明らかな差異が見られる。
 このやうに自己同一性が失はれかけた、ある種の全能感につつまれた状態のヒトはさまざまに本質をつくことばを吐くことがあるが、それは過去の誰かや、あるいは時として宇宙人などといはれる人格をもつ。ここに言ふ宇宙人とはおそらくは未来の何ものかを意味し、自己同一性が失はれ、ことばの深みにアクセスした魂は共時性をもち、過去・現在・未来の別がなくなる。
 このことから、宇宙は通時的であると同時に共時的であることが窺ひ知られる。ことばとは宇宙にはりめぐらされた共時的な存在、生命エネルギーをつなぐ相互連絡網であり、それは量子力学が言ふところの「非局所的長距離相関」をもつ。ヒトの身体はどこまでも通時的だが、ことばは違ふ。ことばはつねに時と場所を超え、関連してゐる。
 ヒトがことばとのつきあひをあやまると、あちらにつれていかれる。時と場所とのはざまに呑まれる。「つきあひ」とは仕(つか)へあふことであって、ことばとヒトが上下なく互ひに仕へる態度が大切なやうだ。ことばを道具として使役するのも、ことばに人形として使役されるのもあやまりで、互ひに敬ひ仕へあふことから導かれるすがたが、あるやうに思へてならない。

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